こんにちは、ストレス社会で毎日ストレスにさらされ心痛め、心が折れ職場をやめたり、命を落とす人を一人でもなくしたいという思いから、強いストレスにさらされても心折れることなく、柔軟でしなやかな心をつくる手助けをしているレジリエンストレーナーの長沢です.
「言葉」というのは創造的であるのと同時に破壊力があります。そして、時間とともにはじめ持っていた意味が変わったりします。
最近よく耳にする『多様性』という言葉にもそのような印象を受けています。特に、『多様性』という言葉が現実にある課題を見えなくしてしまう恐れを感じていて、問題を抱えている人が必要な支援を受けられないということが起きるのではないかと危惧しています。
そこで今日は、『多様性』について、映画『いろとりどりの親子』を観ての感想とともに考えてみます。
『いろとりどりの親子』ってこんな映画です
作家アンドリュー・ソロモンが自分をゲイとして受け入れようと苦悩している両親の姿に直面したことをきっかっけに、10年をかけて、自閉症やダウン症、低身長症、LGBTなど、親とは違う性質を抱えた子を持つ300以上の親子に取材し、24カ国で翻訳され大ベストセラーを映画化。
本作では、さまざまな違いを抱えた子供を持つ6つの親子が直面する困難とその経験から得られる喜び、そして愛情が描かれる。(中略)違いをどう愛するかを学んでいく親子の姿を追いながら、その違いを欠陥としてではなく光として祝福する方法を見出していく過程は、しあわせの形は無限に存在していることを、私たちに気づかせてくれる。(公式サイトから引用)
多様性は価値ではないということについて
「多様性」に対する是非があることを知っていますし、僕自信も言葉の使われ方に若干の違和を感じています。でもこの映画を見ると、「多様性」に対する考え方を少し変えてくれます。
その一つが、周りと違うことを「価値」で決めてはいけないということです。「違い」が誰かにとって価値があるか・ないかではなく、「違い」がある存在として認めることが大切だということですね。
「生産性がない」発言とか「子供を産む機械」発言は、存在に価値づけしようとする考え方ですよね。国が進めようとしている「多様性」も労働の価値で認めようとしているように感じます。
映画では、実際に「違い」がある子どもを持った親たちは、その存在に価値を求めて悩んでいます。苦悩の末、存在自体を喜びとして捉えるて行く過程が描かれています。
多様性ってどんなこと?
一般的には、「多様性」というのは、国籍や障害者、LGTBなどのマイノリティー(社会的少数者)や性別や年代などの「違い」を尊重していこうということだと理解できます。僕自信もこのような考え方には賛同するものです。しかし、最近の「多様性」という言葉の使われ方には違和感を感じることが少なくない事も事実です。また、「多様性」の是非についてたくさんの意見がある事もまた事実です。
僕は、この違和感や是非の原因は、当事者意識の欠如ではないかと考えています。
そう、僕もあなたも「多様性」を構成している一人だということです。この意識が無いままに「多様性」という言葉が使われるので、僕は違和感を感じるし、また、「多様性」に対する是非がおきるのです。
日本は、学校教育の時代から「みんな一緒がいい」ということを教え、「同一性」あるいは「一様性」を求め、「違い」に対し同調圧力の強い傾向があります。だから言葉としては、「多様性を受け入れる」とか「多様性を認める」とかの言い方になりますよね。僕が違和感を最も感じるのがこの言い方なんですよね。
何故かと言うと、この言い方って、自分が多様性の一員だという意識がすでになく、自分以外のマイノリティーや外国人、女性、老人、障害者を多様性だとしている言い方だからです。
(あっ。ごめんなさい、また熱くなってきてますね。少し冷静になります)
僕たちのいる時代というのはまだ、「違い」を排除してきた時代ですから、個人個人の中には「違い」を排除する考え方が残っているのは仕方がない部分もあるのです。
ですから少なくとも、「多様性を受け入れる」「多様性を認める」という一括りではなく、今いる社会には、自分と「違い」がある人達がたくさんいて、その人達も自分も含めて「多様性」のある社会が成立していることを認めたらいいのです。「違い」についてあなたは受け入れられなくても構いません。「違い」があるということだけを認めるだけです。
僕だって考え方の違いがある人はたくさんいますし、苦手な人もいます。でも排除はしません。意見が違えば、意見を戦わせることもします。大事なのは、対話する力ですね。
ただこのように書くとよくある意見では、どんな人も認めるなら、暴力をふるったり犯罪を犯す人も認めるのかということです。少なくとも法治国家である以上、罪に問われ罰を受ける必要があると思います。人を傷つけたり社会を害する行為に対しては法律の範囲で裁かれるものだと思います。
まとめ
映画『いろとりどりの親子』を観て、「多様性」という言葉に対する違和感について考えてみました。
違和感の原因は、
- 個人個人にある「同一性」や「一様性」を求める同調圧力
- 当事者意識の欠如
にあります。
名前だけで形骸化された「多様性」ではなく、本当に一人ひとりが大切にされる「多様性」にしていきたいものですね。